なんでも対になります。
- 男性、女性
- 夫、妻
- 親、子
- オス、メス
- おしべ、めしべ
- 書く人、読む人
- 与える人、受ける人
- 話す人、聞く人
- 服を作る人、服を着る人
- 野菜を作る人、野菜を食べる人
どんな存在も、相手がいます。
相手がいないと生きれないようになっています。
だから
どんな存在も、
対のためになる様に存在しています。
どんな存在も、ただひたすらに自分のためだけに存在することはできません。
どんな存在も、相手のために生きあうようにできているようです。
人間は、相手のために生きるために存在しているようです。
対となるものが、互いに、良く与えあい、良く受けあい、円満になります。
反対に、批判をしていると、苦しみから抜け出せない底無し沼にはまってしまいます。
与えるのも、見返りを考えず与えたことを忘れる様に、与えることです。
見返りを求めると、返してもらうことを求め、お互い苦しくなります。
人間は、対のために存在するのだから、与えて忘れたら良いのです。
自分は何も得ないようにして犠牲になり相手のためになろうとするのはどうでしょう。それは与えることを打算しているので、それも苦しみです。不自然に犠牲になられても、受け取る方も苦しくなります。
人間は、対のために存在するので、ただただ、与えれば良いのです。
反対に、与えたことを覚えてて、返ってくるのを期待してたら、これはおかしいぞ思う必要があります。
与えたこと自体忘れてるのが良いのです。
例えば、「お母さんがおっぱいを与え続け、ヘトヘトでも、それでも与えたい」こんな母性が本来の与えるという行為だと思います。お母さんが子供が大人になって、おっぱい与え続けた分返して、とならないと思います。忘れています。
人間は、対のために存在するので、当然のことなのです。
「ために生きる」根幹は、家族にあります。
「夫婦がお互いために生きる」ここから始まり、親が子供のために生き、子供が親のために生き、兄弟のために生きます。その家族から、また新たな子が生まれ、後世代々、ために生きるのです。
そして、ここから、地域、社会、国、世界に広がります。